AtoZ読書会『光の塔』

 今日泊亜蘭追悼で、『光の塔』読書会。


 まずは自分自身が読んで感じたことを挙げてみる――
 今日泊亜蘭を読んだのはこれが最初だったので、まず何よりも文体に驚いた。一定の形式に則って書かれた文章は、若干堅苦しくはあるものの、古くささは全く感じられなかった。
 主人公が「若者言葉」や西洋文化否定を繰り返すところから、著者の「理想の日本・日本人像」が強く前面に押し出されているように思えた。こちらはさすがに古びている――というか作中の雰囲気から察するに、執筆当時には既に時代に遅れようとしていた考えに著者が固執しているように感じられた。
 そういった文体や思想を抜きにして内容を見れば、今となっては典型的とも言える謎の侵略者もの。主人公に役割が偏りすぎだったり、侵略者の正体が判明してからの展開がご都合主義的――全ての点を因果関係で結ぶような、作家の自己満足は余り好きでない――であったりといった細かい点は気になったが、全体としては今でも古びないエンターテインメントだった。


 他の参加者からも、やはり文体に対する感想は多く出た。読みづらいという人もいれば、格好いいという人もいて、受け止め方はまちまち。執筆当時の時代を感じさせる描写として、冷戦や環境問題といった大きなことから、東京の地形、特に起伏に関する描写の多さ、全自動運転地下鉄が真円・等間隔でないと実現しなかったという設定などがでた。浦和から渋谷まで歩こうという発想は、今じゃまず出てこないものだよなあ。
 火星人の姿形や、宇宙戦争の発想にH・G・ウェルズとの類似を指摘する声もあった。指摘した人の持っていない版の後書きには、ウェルズ流SFには科学的交渉が足りない、と名指しで非難していることからも、ある程度の影響があったことが伺える。しかし、科学的交渉と主張している割には、今日泊流タイムマシンの理論武装も適当に感じられた。劫速辺りは完全に厨設定。

 先も書いたように、主人公の言葉へのこだわり、西洋文化忌避に作者の理想を重ねていたんだけれど、小説は作り物であることを忘れている、と指摘を受ける。どうも最近作品と作者を絡めて読み過ぎているという自覚は薄々あったので、これは手痛かった。何も考えずにこの読み方を続けていたら、どこかで足をすくわれてた気がする。

 幼女萌え言及に対して、そんなものは源氏物語からあると切り返しがあったのも印象的。千年以上前から日本人は幼女萌なんだよ! と誰かが言っていたかもしれない。


 ジュンク堂に寄ってから夕飯がてら二次会。
 id:diachronicさん、id:catalyさんと書評ブログ話で盛り上がる。主にネタバレ忌避と、書評の分量について。ブログがこれだけ溢れている以上、読み手には無数の選択肢があるし選択するべきだと思っているので、自分の想定する読者に対して自分の伝えたいことを書いていれば、向こうから選ぶなり離れるなりしていってくれるというのがブログの正しいあり方だろう。ただ、本当に皆が皆そのように思っているなら、ネタバレ論争なんてものは出てこないわけで、現実は複雑。万人を想定読者にしろっていうのは無理な相談なんだけどねえ。
 仮に自分の主張を読者淘汰説原理主義とでも名付けると、あるブログの方針なども普段の記事から読み取っていくべきだと考えられるので、ことさらここで自分の方針を主張しようとは思わない。ただ、考えには共感したのでid:diachronicさんの積極的にネタバレしていこう運動は応援していこうと思う。

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光の塔 (ハヤカワ文庫 JA 72)

光の塔 (ハヤカワ文庫 JA 72)