日本沈没

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

日本沈没 下 (小学館文庫 こ 11-2)

 SFファン交流会*1の読書会企画指定図書であったり、そもそも映画化に始まる沈没ブームであるので、潮流に乗ってみた。
 翻訳物からSFに入ったこともあり、日本SFには長い間苦手意識というか、自分と噛み合わないものを感じてきた。最近の作品については昨年の第二期リアル・フィクションなどをきっかけに読むようになって抵抗もなくなっていたが、それ以前の作品は今でもほとんど手を付けていない。昨年、巽孝之先生の講義で小松左京『日本アパッチ族』、『果てしなき流れの果てに』を読む機会もあったが、社会問題を前面に押し出す作風には食指を動かされなかった。スマートな言い方はできないが、僕はSFに想像力の無限性を求めてるのであり、現代社会をベースにした問題意識は相容れないものであった。

 前置きが長くなったが、『日本沈没』はものすごい作品であった。それこそ、自分のSF観を根本から揺るがすような読書体験であった。
 文字通り日本が沈むという極限状態に臨み、日本人という存在を護ろうとする人々。一方で大時代的な語りをぶち挙げ、戦前からの日本という国への思いを引きずりながら、戦後育ちの小野寺には“お礼奉公”という言葉を吐かせるバランス感覚。日本人を救おうと口をそろえ、実行さえしようとしながらも、なおワイドショー的感覚を捨てられない外国人たち。国土と運命を共にすることを決意しながら、日本の心とも言える芸術品を国外へ持ちだし、それによって生存者をも救おうとする老人。
 SFでしかあり得ない形で現代社会、日本という国に光を当て、ともすれば陳腐になりそうな極限状態から全く目を離すことなくかききった大変な力作だった。

 しかし、今日の日本で、この作品がこのままの形で発表当時のように大衆に受け入れられることはあるだろうか。戦前を経験した大人と戦争をしらない子供たちが混在していた70年代とは異なり、今は団塊の世代すら定年を迎える時代である。田所博士の、渡老人の、日本という国への思いは確かに胸を打つものがあったが、それは決して共感であったとは言えない。これが悪いことだとは言わないが、結局の所我々の世代は、日本国民が国土という母親の元を――戦争で、経済成長で――必死で巣立とうとした時代を経験していない、赤ん坊なのかもしれない。
 そう考えると、この夏公開された映画版『日本沈没』は、そうした幼児に向けられたものだったのだろうと思えてくる。母親という大きな存在を明確に示しながらも、結局は恋愛という安易な――そしてあまりに陳腐に描かれた――テーマに絞る方が、余程大勢に受け入れられやすいに違いない。

 ファン交の読書会を意識して久しぶりに長文にしてみたが、我ながら支離滅裂である。これでは真っ当な書き物はできまい。